弱音をさらけ出せない社会を変えたい
2020年、日本ラグビーフットボール選手会が中心としてスタートした「よわいはつよい」プロジェクトが立ち上がった経緯についてお伺いできますか。
川村氏:この取り組みを始める前に、日本ラグビーフットボール選手会、元会長の畠山健介さんが「海外と比べて日本のアスリートのメンタルフィットネスの取り組みは少ない。今後はもっと必要になると思う」と話されていました。また、僕自身もその必要性を感じていました。ただトップリーグの最前線で活躍している選手は、「心のケア? そんなの必要ないです」と受け入れない選手は多い。心のケアと聞くと、弱音を見せる=かっこ悪い、と思っている人が多いんです。しかしラグビー大国のニュージーランドをはじめ、オーストラリアでもメンタルフィットネスのプログラム(通称、PDP:Player Development Program)が行われていて、メンタルフィットネスがパフォーマンスに与える影響は重大だということも分かっています。ですから、僕は心と向き合う取り組みを始めました。
小塩氏:私は若者のメンタルヘルスの研究に携わっています。川村さんの「世の中のより多くの人に幸せになってほしい。そういう社会をつくりたい」という思いに共感してプロジェクトに参加させていただくことになりました。
ちなみに、皆さんは聞き慣れないかもしれないですが、「メンタルフィットネス」とは、⼼の状態を正しく認識し、受け入れて、柔軟に対応する⼒。心の健康やそのケアの必要性について、より受け入れやすいフレーズとして、ニュージーランドラグビー協会が使っている言葉です。若者に影響を与えられる代表格といえば、アスリートだと思いますし、私自身、アスリートから影響を受けて今の自分があると感じています。一方でアスリートたちが感じるストレス、例えば、試合に選出されるかどうかや、勝敗などを考えると、心の負担が大きいんじゃないかと。しかし調べてみると体系的な支援システムや国際科学雑誌での報告はほとんどありません。
2018年にはオリンピック史上、メダル獲得数最多である競泳のマイケル・フェルプス選手がうつ病であることを告白したのをきっかけに、欧米諸国やオーストラリアの研究者がトップアスリートのメンタルフィットネスに関する調査を始めました。これらの知見が基になって、ようやく最近になってガイドラインなども出てきていますが、日本ではまだまだ調査や研究が進んでおらず、ガイドラインのエビデンスには含まれていません。そんなとき、日本ラグビーフットボール選手会の皆さんと話をする機会があり、一緒にメンタルフィットネスに取り組むことになりました。
川村氏:アスリートにとって、スポーツで大成することは一番の目的です。でもそうでなかったとしても、人生の中で何かを本気で追い求めて費やした時間は何にも変えがたい財産。自身のキャリアにとって必ずプラスにつながるものだし、ましてやそれが足かせになってはいけない。何かを追い求めるときには、自分を追い詰める側面があることも身をもって経験していますし、こういった自分を高めていく行為自体はすごく尊いものだと思います。
でも調子がよくないときに、それを言うことが許されない空気というのは問題だと思います。僕自身、選手として心のコンディションはパフォーマンスにつながっていると思いますし、海外でもエビデンスが出てきています。調子がよくないことがあるのは当然だし、それを当たり前のように発言することができる社会にしたくて「よわいはつよい」プロジェクトを立ち上げました。
ラグビー界から始める、新たな取り組み
「よわいはつよい」プロジェクトの概要やプログラム内容について具体的に教えていただけますか。
川村氏:「よわいはつよい」プロジェクトは、アスリートが率先して、オープンに心の不調と向き合うことで精神疾患に関する偏見や誤解を緩和し、当たり前に付き合っていくことができる社会になることを目指しています。
選手会として取り組もうとしているのは先ほどお話したPDP(Player Development Program)の日本版です。現在はそのモニタリングとしてトップリーグの選手20名ほどを対象にした試験的なプログラムを進めています。このPDPのモニタリングでは、PDM(Player Development Manager)が選手と共に1年間、何でも相談できる相手として伴走し、その効果を確認します。このPDMの中には元ラグビー日本代表キャプテンを務めた廣瀬俊朗さんをはじめとする、ラグビー以外のスポーツ界でも活躍されているそうそうたるメンバーの方々に参加していただいています。
いきなりメンタルフィットネスの専門家が選手に話をしても、選手たちが「私は大丈夫です。問題はありません」と心の壁を作りかねません。でも同じアスリートや同じトップレベルの経験がある方がPDMになることで「弱音を吐くのはダメ」と考える選手の心の壁を取っ払うことができるのではないかと考えています。
今はPDMの方向けに研修を実施していて、2020年12月上旬ごろからこのモニタリングが開始される予定です。今回は一対一の取り組みですが、メンタルフィットネス先進国であるニュージーランドでは各チームに必ず一人、PDMが選手会から派遣されていて、チームの選手たちの包括的なサポートの担当者として働いています。僕らもいずれはその形に持っていければと考えています。
小塩氏:私たちはまだスタート地点に立ったばかり。アスリートのみならず、特に日本では弱音を言いづらい文化があると感じています。弱みを見せることが恥だと思うところがあるというのがひとつの要因ではないかと思います。その点、このPDPの取り組みでは、心の不調を相談できるだけでなく、キャリアやお金のことなどを気になることを何でも相談できる体制が整うので、アスリートをさまざまな角度からサポートできるのではないかと思います。このサポートのあり方は、アスリート・スポーツ界の心理的安全性を高めることにつながると考えています。
川村氏:そういえば、最近、子育てで興味深い話を読みました。男女一人ずつ子育てをしている親御さんの話ですが、男の子は何かあるたび、「僕は男だ」と主張する。一方で女の子は一切そういう主張はしないという話でした。実は、そう主張し続けないと負けてしまうくらい男は弱いんじゃないかと著者の方が書かれていました。
でも本来性別に関係なく、心の不調は誰にでも起こることです。だからここでは弱みを見せても大丈夫なんだという、心理的安全性が保たれた場所を誰もが持つべきだと。そうすれば、最終的にはアスリートだけではなく、みんなが生きていて心地いいというか、幸せになれる、いわゆるウェルビーイングを実現できるのではないかと思います。
小塩氏:PDPではONE TAP SPORTSで選手のメンタル状況をモニタリングする予定です。それらを分析し、評価しておかないと継続的なプログラムにはなりません。今回、日本ラグビーフットボール選手会を中心に取り組みが始まっていますが、今後はスポーツ界でも他の業界でも、同じような取り組みがどんどん広がっていってほしいですね。汎用(はんよう)性の高さをイメージできる、転用できる核となるようなベースを作るのが今回の僕たちの役割ではないかと思っています。
先ほど川村さんからも話がありましたが、ニュージーランドやオーストラリアはメンタルフィットネスケアの先進国で、国家予算がしっかりとついて取り組みを推進しています。2022年度から日本の教育現場でも精神疾患の教育が入るので、どんどん変わっていくことを期待しています。
弱さを受け入れる力、それは勇気
吉谷さんは「よわいはつよい」というプロジェクト名のネーミングやホームページの制作をされたとお伺いしています。このプロジェクトに込めた思いについてお聞かせください。
吉谷氏:トップページにある8行でまとめられたメッセージがこのプロジェクトを端的に表しています。弱さをさらけ出して、それを受け入れることこそ本当の強さだということが、伝えたいことでした。
この中に「勇気」という言葉がありますが、かつて僕は「強さ」というのは「優しさ」だと考えていました。ですがこのプロジェクトに携わっていく中で、「強さ」とは「勇気」なんじゃないかと考えるようになりました。自分の弱さを受け入れる勇気だったり、自分が感じている違和感を言葉や行動にする勇気だったり。もちろんその勇気というのは社会や人のためになる「優しさ」の要素もあると思いますが。
どんなに強く見える人でも、その人の本当の心の中は誰にもわかりませんし、人間は基本的に弱い生き物だと思います。僕だって冬は朝起きられず「自分って弱い人間だなぁ」とよく思います(笑)。けれどみんながお互いに「そりゃあ強い自分でありたいけど、人って完璧じゃなくてみんな弱いよね」といった前提があれば、人に優しくできますし、誰かがミスをしても「お互いさま」と思える寛容な社会になるのではないかと思います。
吉谷さんも元ラグビー選手で、高校ラグビー部のヘッドコーチをされていた経験があるんですね。
吉谷氏:コーチをしていた時、失敗したなと思っていることがあって……。まだコーチを始めたばかりの頃、自分にとってコーチという立場が初めてということもあり気合いが入りすぎて、「あれもしたいこれもしたい」と選手たちにたくさん「指示」をしてしまっていたんです。ですが、なかなか選手たちは自分の思い通りには動かない。なので練習中によく「どうしてできないの!?」と言っていました。今思えば自分のコーチング力のなさです。
それからは自分の役割は「ラグビーを教える人」ではなく、「ラグビーを好きになってもらうお手伝いをする人」と置き換えました。なので、それまではこちらが「理想のプレー」などを一方的に映像で見せていたのですが、選手たち自身に「マネしたい好きな選手を見つけよう」と言ったり、カラダづくりの目標もこちらが設定するのではなく自分たちに考えてもらったりするようにしました。
選手たちの言っていることを受け入れる心の余白を持ち、選ぶ権利を選手に与える。そうすれば、選手と指導者という立場を超えて心を通わせることもできますし、結果的にチームの戦績も伸びました。受け入れる勇気というのは、選手だけに言えることではなく、指導者にとっても大事なことではないかと思います。
では、本当の意味で強さを兼ね備えた選手になるためにはどうすればいいのでしょう。
小塩氏:強さの土台には、メンタルフィットネスがあると思っています。アスリートの最上の目的がパフォーマンスの向上だとすると、土台の上に練習する、技術を高めるということがあると思います。ただ土台がぐらついていたら、本当の意味で強くはなれないと思います。だからこそ、メンタルフィットネスは大事。まずは自分の心の状態をありのままに受け入れるところからスタートするのだと思います。そして心と向き合うとき、誰かと自分の気持ちを共有するためにONE TAP SPORTSのようなツールを使って、見える化するのがいいと思います。
川村氏:実は自分を例にあげると、メンタルフィットネスに注目し、取り組むようになってから、選手としてのパフォーマンスが高いレベルで安定してきました。どんな風に取り組んでいるかというと、PDMのキャリアディレクター小沼健太郎さんという方との会話を思い出すようにしていました。
それは、自分の心の中にある潜在的なモヤモヤを放置するのではなく、向き合って、このモヤモヤは何か?を考えるんです。原因が何かを考え、顕在化することで自分なりにモヤモヤを解消する対処方法を見つけ出すことができれば、それにうまく対応できる。また対処方法が分からなくても、自分がそういう状態なんだということを理解するだけでパフォーマンスは改善していきます。心の持ちようで、パフォーマンスは変わる。だから僕は選手たちにメンタルフィットネスときちんと向き合った方がいいと伝えたいと思います。
吉谷氏:本当の意味で強い選手とは、ムラがないことだと思いますね。ムラをなくすためにどうしたらいいのかを考えると、やはり心が大事なんじゃないかと思います。
それでは、最後に今後の目標とメッセージをお願いします。
川村氏:選手会としてはラグビー界でのモニタリングを成功させることと、2021年以降の新リーグが開始された時に各チームでPDPを説明し、導入するのが目標です。サッカーや野球など他競技の選手会の皆さんにも興味を持っていただいているので、モニタリングの結果をご紹介していきたいと思っています。そしていずれはアスリートだけでなく、お子さんから高齢者の皆さんまで、安心して相談できるPDMのような人を身近に持てるような仕組みを広げていきたいです。
小塩氏:今はやっと一歩踏み出したばかり。現役アスリートを対象に行っている取り組みですが、継続的なプログラムにするために「見える化」できるプラットフォームを基に研究者という立場で分析していきます。ジュニア世代の指導者・教育現場にも広めていければ、「メンタルフィットネス」というものがもっと身近なものとなり、心の状態をさらけ出せるような場づくりができるのではないかと思います。
吉谷氏:「よわいはつよい」プロジェクトを通じて、自分を受け入れる力、勇気を持ってもらえるように活動したいと思います。そして指導者の方には、まずはご自身の悩みや不安をさらけ出してくださいと言いたいです。指導者が弱みを出せば、きっと選手たちも同じように心を開いてくれると思います。
取材・文/松葉紀子(スパイラルワークス) 撮影/堀 浩一郎