野球医学は治して終わり、ではない。「野球選手の未来をつくる」再発予防の道〈後編〉

野球選手の怪我やトレーニング方法、人材育成に悩んでいる指導者・保護者は多いのではないだろうか。選手の故障予防や育成のために必要なものとは? 整形外科医から始まり、機械工学、野球現場のマネジメント、スポーツ科学と、さまざまな道をたどった経験を生かし「ベースボール&スポーツクリニック」の野球医学センター長を務める野球医学専門家・馬見塚尚孝(まみづか・なおたか)氏に話を伺った。

インタビュイー

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馬見塚 尚孝
ベースボール&スポーツクリニック 野球医学センター長

筑波大学の整形外科医として勤務。34歳で筑波大学博士課程に進み、腱反射を数量化するシステムの研究開発に携わる。2006年より筑波大学硬式野球部チームドクターとして活動。首都大学野球連盟で取り組んだ安全対策パンフレットの作成や、投球数制限のルール化などに関わる。その後、西別府病院スポーツ医学センター(大分県別府市)の「野球医学科」立ち上げに携わり、2019年にはスポーツ選手を対象とした専門クリニック「ベースボール&スポーツクリニック」(神奈川県川崎市)を開業。プロ野球選手を含め多くの野球選手の治療・育成経験を持つ。

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問題は「指導者の誤った知識」ではなく「知識をアップデートする仕組みや場がない」こと

馬見塚先生がジュニア育成サポートを行っている中で感じる、指導現場の意識や現状を教えてください。

急激に変わりつつあるという認識ですね。野球はかなり遅れていましたけども、やっと変わり始めました。

どのように遅れていると感じましたか?

例えば、研究を見るとストレッチは30秒ぐらいやらなければ効果が十分得られないと言われていますが、未だに10秒程度で終わるチームが多いです。とくに寒い時期は30分に1回はストレッチをしないと効果が持続しないと言われています。

野球のようにプレー中あまり動かない競技は、ストレッチをこまめにやらないと身体が固くなってくる。そういった生理学的なことを学んでいれば、練習の合間にストレッチを行うようにできるはずです。

練習の合間にストレッチをしていれば、クールダウンで行うストレッチは要りませんよね。しかし、まだウォーミングアップでストレッチをして、クールダウンでもう一度ストレッチをするという固定概念のもと練習メニューを組んでいるチームがたくさんあります。このような観点からも野球におけるスポーツ科学を取り入れることへの遅れを感じます。

中高生の部活指導において、指導者の意識や知識で故障のリスクはどのくらい変わりますか。

すごく変わります。

もちろん選手に怪我をさせたいと思っている指導者はいませんが、自分自身の経験や他校が実施している方法といった情報だけを頼りに、トレーニングを指導しているケースが多いのだと思います。ただ、それは指導者の知識だけの問題ではなく、指導者が新しい知識を得たりアップデートする仕組みや場がないことに大きな課題があると考えています。

それらをシステム化し、整備する方法のひとつとして、まずは指導者ライセンスを活用してベースとなる知識のアップデートを得てもらう。あとは生理学的・コーチング学的背景、スポーツ障害の背景にある知識習得をお願いしたいですね。コンディション管理を「ONE TAP SPORTS」で行い、取得データの分析を深め、根拠を持って指導やトレーニングに生かすのもひとつの方法です。

AIコーチが登場しても、「勘所」を伝えるのは指導者の仕事

指導者に対してサイエンスの重要性を伝える際、気をつけていることはありますか?

あえて専門用語を使うようにしています。今の時代、わからない言葉を書き留めて、後でインターネットで調べることはできますから。自分で調べることでいろんな情報に触れる機会が増えますから勉強になると思います。

また、何から勉強したらいいのか分からないという人に向けて、Facebookに「『野球医学』の教科書」というページを設けて発信しています。難しい話を全部書くことはできないので、キーワードを書いてそれを皆さんが学べるような内容を心掛けていますよ。

指導者の多くは経験や感覚に従って良いと思うトレーニングや指導を行っていると思いますが、そこに、科学的な裏付けやロジックなどの根拠が加われば、とても良い指導に変わっていくと考えています。

この先テクノロジーがますます進化していくと思いますが、選手が自分のパーソナルなデータを集め、自分のことを自分で管理できるようになる時代には、指導者はどうあるべきでしょうか。

ベースボール&スポーツクリニック 野球医学センター長 馬見塚尚孝 氏

どんなにテクノロジーが進歩しても、運動感覚のコツをテクノロジーだけで伝えるのは難しいと思います。

将来的には、動作診断はテクノロジーで解決できるでしょう。しかし、その先の、動作の感覚や改善方法をどう伝えるかは指導者の役割として必ず残ります。

英オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン氏が「2030年には47%の仕事が機械に代替されるリスクがある」という報告をしました。そこに、人間に必要とされるスキルというのも発表されているのですが、その中に戦略的学習力や心理学がある。これってコーチングにも必要なんです。

今後、AIコーチが出てくると思いますが、かといって全てがテクノロジーでカバーできるわけではないでしょう。

「治療して終わり」ではなく「再発予防」するためにスポーツ医療、サイエンスの知識が欠かせない

スポーツに関わる子ども、保護者、指導者の方に対して、スポーツ医療の知識・理解の重要性についてメッセージをいただけますか。

「三次予防」という言葉があります。再発予防という意味で、故障をしたときにどんな練習をしていたのかを評価し、治療して終わるのではなく、再発予防するためにコンディションに合わせたトレーニングプログラムを提案します。

例えば、試合で150球投げるのであれば、練習で50球しか投げ込まないのではなくて、投球強度を落としてまず150球を投げる練習から始めていきましょう。そして、少しずつその強度を上げていきましょうと。

投球障害リスクのペンタゴンのバランスを考えるとこうなります。

工学部の材料工学で、疲労現象や何回も動かして壊れるという現象は、回数、強度、力の伝わる方向、コンディショニング、実験条件、個体差、物性、と原因を分解することができます。

投球数を増やしたいのであれば、投球強度を落とすとか投球フォームを改善するとか、冬じゃなくて夏のコンディションのいい時期にやるとか、原因となる5つのレーダーチャートを作る。そういうものを学んで取り組むといいかなと思います。

故障を予防する、治療した後の再発を防止する。そういったことはスポーツ医療の知識や理解がないとできないことであり、私のクリニックでは、これらを包括的に提供しています。

最後に、スポーツ医療やスポーツ科学に知見が少ない指導者の方たちに対して、今日からできる指導改善の第一歩を教えていただけますか。

ベースボール&スポーツクリニック 野球医学センター長 馬見塚尚孝 氏

改善しようと思っている人は、おそらくすでに取り組んでいるはずなので、まだ気づいていない人の意識をどう変えていくかが重要だと思います。ひとつの方法として、指導者ライセンス、指導要領をうまく活用することだと思います。

指導者にはスポーツパフォーマンスの向上というミッションがありますが、実際は人材育成へ貢献するという価値もかなり高いと思っていまして。そうすると新しい時代の人材育成がどうあるべきかについても議論されないといけません。

アメリカに行ったときに見てきたこととして、アメリカでは良くない行動をした学生に対して、監督は「神が見ているぞ」って言うだけなんですよね。

変化を強制しようとしていないんです。「神が見ているぞ」と言うだけ。アメリカの人材育成は、家庭、地域、学校、スポーツ、宗教の5つの規範があるんですね。

一方、日本は家庭、学校、スポーツ……。地域との関係性は薄くなってきていますし、宗教はなじみが薄い。だから人材育成におけるスポーツの影響力がアメリカに比べてとても大きいと感じました。

日本におけるスポーツの価値について盛んに議論されていますが、ビジネス的価値を指す場合が多い。ですが、ライフスキルや非認知能力をスポーツによって育成できることはもっと広く認知されるべきです。人材育成という観点でも指導者が適切な指導を行えるような指導要項を整備し選手育成できるような形に持っていければ、諸外国に負けないかなと思います。

スポーツを通じて、アメリカや中国などに負けない人材育成ができると本気で思っているのですが、理想が高すぎますでしょうか?(笑)

壮大ですね! 興味深いお話をありがとうございました。

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取材・文/今井 慧 撮影/齋藤暁経