日本スポーツ界に求められる環境づくりとは〈前編〉

日本のスポーツ界は、精神論で語られることが多かった。行き過ぎた精神論による過剰なトレーニングは、怪我の重症化だけでなく、ユース世代の燃え尽き症候群も招くとも言われる。指導者が適切な情報をしっかりと得ることができれば、防げたかもしれない––。今回はスポーツセーフティージャパン代表理事の佐保豊氏に、これまでの経験を踏まえて日本スポーツ界の課題とこれから求められることを伺い、前編と後編にわたってご紹介する。

インタビュイー

インタビュイー
佐保 豊
NPO法人スポーツセーフティージャパン 代表理事

高校卒業後に単身アメリカへ渡りNATA-ATCを取得。サッカーアメリカ代表、北米アイスホッケーリーグ(NHL)にインターンのトレーナーとして帯同した後、アイスホッケー日本代表トレーナーとして長野オリンピックを経験、その後、南米チリのプロサッカークラブでの活動を経て、Jリーグの名古屋グランパスのトレーナーを経験後、NPO法人スポーツセーフティージャパンを立ち上げる。 【資格】 NATA公認アスレティックトレーナー(ATC) NSCA認定ストレングス&コンディショニングスペシャリスト(CSCS) 【略歴】 JOC(日本オリンピック委員会)医科学強化スタッフ 日本アイスホッケー連盟理事 NPO法人スポーツセーフティージャパン代表理事 アイスホッケー男子日本代表チーム ヘッドアスレティックトレーナー フットサル日本代表チーム Jリーグ名古屋グランパス ほか

アスレティックトレーナーを目指すきっかけは、怪我を治してもらえなかったこと

アスレティックトレーナーを目指したきっかけを教えてください。

高校生の時に怪我をして、病院に通っていたのですが、湿布だけもらって終わり、まともな治療をしてもらえなくて、怪我がなかなか治りませんでした。どうやったらこの怪我を治せるんだろうって自分で考えるようになりました。

インターネットがない時代だったので、大きい図書館に行って専門書やテーピングの本を読み漁っていて出会ったのが『コーチング・クリニック』という雑誌です。読むうちに、NATA-ATCの存在を知りました。

さらに調べていると、日本では治療院をやっている人たちがトレーナーと呼ばれていたのですが、アメリカではトレーナーが学問として成り立っているというのを知って、「こういう職業もありだな」と思ったのがきっかけですね。

高校生の時にアメリカに行かれたんですか?

高校3年生の時です。当時は1980年代ですから、インターネットもなければ、携帯電話もない。図書館と本屋さんに通って情報を集めてという時代です。

そんな時代に、ご自身で勉強されてアメリカに行くなんてすごいですね。

興味があったんだなと思います。好きなことはとことんやるんですが、興味がないことはまったくやらない性格なんです。でも一番はやはり怪我を治してもらえなかったことですよね。自分の怪我を自分で知識をつけて治そうと思って学び始めてアメリカまで行くことになりました。

スポーツセーフティージャパン代表理事佐保氏インタビューショット

アメリカで経験した「人生で一番衝撃を受けたこと」

18歳でATCの資格を取るためにアメリカに渡られたんですね。

英語がまったく分からない状態で行ったので、まずは半年ぐらい英語の語学学校に通って勉強したんです。TOEFLを最低限の点数取って、地域のコミュニティカレッジに入りました。そこでサッカー部に入りました。当時まだ18歳ぐらい。サッカーをしながら英語に慣れつつ、そのまま大学に進学し、学校の勉強もしっかりやりました。アメリカの大学では単位を取ってないとプレーできないんですよ。

学びながら印象的だったことはありますか?

アメリカにはちゃんと学生トレーナーという制度があります。トレーナーの資格を取るためにはある程度経験を積まないと試験を受ける権利すらもらえません。そのために、学生トレーナーになるための試験をクリアして、経験を積まないと資格受験の権利が得られないんです。

学生トレーナーとしての活動も、午前中の早い時間帯で授業を受けて、昼から夜まで部活動です。今シーズンはアメフト、今シーズンはサッカーというようにシーズンごとに担当が決まります。学業と仕事の両立をするのは大変でしたね。

僕の人生で多分一番大きな出来事なのですが、学生トレーナーになった途端に、自分のネームプレートとロッカーが与えられたんです。ロッカーを開けると、今日着るものが頭のてっぺんからつま先まで全部用意されているんです。学校のロゴが入っているスポンサーのものを着ないといけない。日本の部活動しか知らなかった自分にとってはもう衝撃的な出来事でした。

日本とは環境が全然違うんですね。

アメリカは高校でもコーチは学校の先生ではなく、プロのコーチですし、トレーナーもいる環境なんです。全てではないですが、日本と比べると圧倒的な環境の差があります。

日本とアメリカはスポーツの価値が全然違うということですね。

選手の環境に投資するのが当たり前なので、すごくお金をかけます。特にNCAA(全米大学体育協会)は大学スポーツでありながら、放映権がものすごく支払われます。テキサスのスポーツのトップ大学になるとスポーツに充てる予算が200億円を超えていたりします。

アメリカ代表でインターン、その後アイスホッケー日本代表トレーナーへ

大学を卒業されてからは何をされていたんですか?

25歳の時にアメリカの大学でカリキュラムを全部終わらせて卒業し、NATAという団体が発行しているアスレティックトレーナーの国家資格のようなものを取りました。医療資格になるんですが、その資格を取ってインターンをしたいなと思って、大学の教授のつてでアメリカ代表のサッカーチームに同行させてもらいました。ちょうど1998年のサッカーW杯フランス大会の開催前の予選の頃です。ワールドカップに向けてチームづくりをしているときに、インターンさせてもらいました。

インターンでアメリカ代表って、すごいですね。

大学の教授がアメリカサッカー連盟の役員をやっていたこともあって運が良かったです。サンディエゴにあるオリンピックトレーニングセンターで合宿して、食堂で選手たちと食事していたら、何人かの日本人が近くで食事をしていたんです。

こんなところに日本人がいるなんて珍しいと思って、挨拶しに行ったんです。そしたら日本のオリンピック委員会の視察で来ていることが分かりました。その中の一人がアイスホッケー日本代表のチームドクターをやられていた方だったんです。アメリカ代表のキャンプが終わった時に、その方から「アイスホッケーのトレーナーやらないか」って声をかけていただいてアイスホッケー日本代表のトレーナーをやることになりました。その時はアイスホッケーは全然知らなかったんですけどね。

すごいきっかけですね。

長野オリンピックでアイスホッケー日本代表チームのトレーナーとして帯同させてもらったのが98年です。オリンピックの良いところも悪いところもいろいろ見させてもらって、ちょっと疲れてしまって……、これからどうしようかと思っているときに、アメリカのコミュニティカレッジでサッカーをプレーしていた時のチームメイトのチリ人から連絡がきて、今チリに戻ってプロ選手になってるから遊びに来ないかということで、チリに旅行に行ったんです。現地でサッカー関連のいろいろな人を紹介されて、そのまま現地で仕事することになりました。

チリのプロサッカークラブですか?

チリのU-17代表チームに数カ月帯同した後、コロコロというチリの名門クラブで数カ月、その後、CDパレスティーノというクラブで2シーズン、トレーナーとして働きました。

スポーツセーフティージャパン代表理事佐保氏インタビューショット

人間力が培われた南米チリでのトレーナー経験

南米チリというまたまったく違う文化でトレーナーというお仕事はいかがでしたか?

裕福な国ではなかったので、本当に物がないという状況だったんです。それでもトレーナーの仕事はしっかり確立されていて、チームには帯同するのが当たり前の価値観でした。そんな中で培われたのはトレーナーの技術云々よりも、コミュニケーション能力です。アメリカと比べると倫理観が育っていないというか、人種差別なんていう概念もないので、当たり前のように差別的なことを言われますし、東洋人自体が珍しいのでからかわれるんです。そこをから信頼関係を築かないとトレーナーとして良い仕事ができないので苦労しましたね。

チリでの活動を終えてからは、帰国されてJリーグのクラブで働いたんですね。

これもご縁なのですが、東京でU-20の国際大会があって、チリU-20代表も来日することになっていたんです。チリでU-17の代表トレーナーをしていた時の監督が、U-20の監督をやっていて、「東京で大会があるから、お前も来るか?」ということで帰ってきたんです。その大会期間中に、名古屋グランパスからお話をいただいて働くことになりました。

日本は先進国なのにスポーツの環境が悪すぎる。この現状を変えるべくスポーツセーフティージャパンを設立

スポーツセーフティージャパンを立ち上げたきっかけを教えてください。

2002年の日韓W杯が終わって、その次の年から名古屋グランパスで2年働いた後、トレーナーの友人と、「R-body project」というジムを恵比寿に立ち上げました。そこに7年ぐらい在籍していましたが、事業が落ち着いてきたこともあり、帰国当初から日本のスポーツの環境を良くするために考えていた次なるプロジェクトに移行することにしました。

自分が海外と日本のスポーツ文化、環境の違いを見て感じてきたことを形にできないかと。日本は先進国なのに、なぜこんなに劣悪な環境でスポーツをやっているんだろうという想いはずっとありました。まずはスポーツの安全を考慮してほしいということ、トレーニングする環境もクラブハウスなどの施設面も良くしていかないといけないということです。

スポーツ界にお金が生み出せないというビジネス面も含めて、環境を変えたいと思って立ち上げたのがスポーツセーフティージャパンです。2007年にNPO法人にしました。それから講習会をやり続けました。今では年間150回ぐらいですね。

年間150回はすごいですね!

あらゆるスポーツの環境で日本に足りないものの一つが、安全面です。
クラブや少年団、学校でもトレーナーがいないところでの事故が多く見られるので、それをどうやったら防げるかなと考えていました。トレーナーをいきなり配置するといっても無理なので、今いる指導者の方たちを指導することによってちょっとでも防いでいこうということで、教育プログラムをメインに講習会をすることにしたんです。ニーズはたくさんあるので頻度は高いですね。

スポーツセーフティージャパン代表理事佐保氏横顔

「知る」「備える」「整える」でスポーツ環境に安全整備を

年間150回の講習会で、お伝えする一番のメッセージはなんですか?

人とモノと体制の重要性をお伝えします。アクションでいうと〈知る、備える、整える〉なのですが、まずは最低限必要な知識を持ってもらうことです。知識を持った人材を的確に配置する「人」の部分と、「モノ」であればAEDなどの安全性を担保する上で必要なものです。最後は人とモノがしっかり機能する体制を作りましょうと。

具体的に知っておいてほしいものは3つなのですが、スポーツの現場で起こる死亡事故の多くは突然死で、そのほとんどが心臓疾患です。その次が頭部の怪我、そして次に熱中症です。この3つでほぼ9割近くになるんです。

スポーツ現場に立つ人は最低限この3つを未然に防ぐこと、起こったときに対応できる最低限の知識を身につけましょうと言っています。例えば心臓だったらAEDが必要です。頭の怪我だったら症状の特徴をよく知っておくこと。あとは1秒でも早く搬送できるよう、近くの脳神経外科を調べておくことです。

熱中症に関しては、熱射病と言われる自分の体温がコントロールできず、最悪死に至るようなひどいものは、まず氷水に全身を浸すというのが一番助かる方法なんです。それができる環境の確保とある程度の量の氷へのアクセスがあるかどうかを調べておくこと。熱中症の危ない状況はどんな症状が出てるのかを知識としてつけてもらうことです。これらを僕らは“HEART HEAD HEAT”と言ってトリプルHと言っています。これがスポーツ現場で起こる死亡事故の9割近くになるので、まずはトリプルHの知識をしっかりつけましょうということですね。

最後にエマージェンシーアクションプラン(緊急時対応計画)を作りましょうとお伝えします。グラウンドのどこにAEDが置いてあるか、救急車がどこから入ってくるか、どこに病院があるか電話番号と一緒に書いてあるものを作ります。緊急事態の可能性を考慮した上で、最短で病院に連れていく方法をこの紙一枚に残しておくということも重要です。

現場でどんな事故が起こっているかを知らないと対策はできません。スポーツ現場でどんな事故、怪我が起きているのかを記録して、それを減らすために対策を練ります。そのために傷害報告書などの情報をデータとして持っておくというのが必要です。

トリプルHの知識と、知る・備える・整えるという3つのアクションを、現場では必ず、プロから育成年代まで全てでやりましょうというところからですね。

〈後編〉へつづく

取材・文/今井 慧 撮影/齋藤暁経