現役時代に苦しんだ経験を生かし、「アスリートを守るため」情報整備と仕組みづくりに邁進する〈後編〉

アスリート現役時代、苦しんだ怪我や病気などの困難は、支えてくれた人がいたからこそ乗り越えられたと話す室伏由佳さん。引退後はご自身の豊富な経験を生かし、スポーツ医科学(アンチ・ドーピング教育)やスポーツ心理学の教育研究を行う。今回は、アスリートや指導者がアクセスできる情報整備や教育のための仕組みづくり、未来のアスリートを守るための活動について聞いた。前編と後編にわたってお送りする。

インタビュイー

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室伏 由佳
順天堂大学スポーツ健康科学部 講師/株式会社attainment 代表取締役

1977年生まれ。スポーツ健康科学博士。陸上競技女子ハンマー投げの日本記録保持者(2020年8月現在)、女子円盤投げの元日本記録保持者。2004年アテネオリンピック女子ハンマー投げ日本代表。2012年に競技を引退。現在、順天堂大学スポーツ健康科学部講師、株式会社attainment代表取締役を務めている。アンチ・ドーピング教育、スポーツ心理学を中心に研究活動を続けるとともに、スポーツと医学、健康などをテーマに講演や実技指導など幅広く活動している。

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「常に進化し続ける指導者」を見せてくれる父の影響

指導の現場において、指導者に求められることはなんでしょうか?

選手がどこかで限界を感じて行き詰まってしまうことを理解しておくことです。そしてその理由が把握できていれば、怪我や病気などの大きなトラブルを未然に防ぐことにつながります。特に指導歴の長い方は経験で察知する部分もあると思うので、そういったノウハウをその場で終わらせずに、いろんな人と共有していくことができれば一番良いですね。

逆にコーチング歴の浅い方は、データに頼ることが可能な時代なのでデータを利用しながらコミュニケーションをしっかり取ることですね。子どもたちの個別性も時代によって変わっていくので、指導者自身のアップデートを怠らず、常に進化していく必要があると思います。実はそう思うようになったのは父の影響なんです。

父(室伏重信氏)は、オリンピックで1972年ミュンヘン大会から、1984年ロサンゼルス大会まで、4回の代表となり(※1980年モスクワ大会は日本がボイコット)、大学の教員をしながら陸上競技部の指導を行うダブルキャリアを送っていました。大学を退職後、74歳となる今でもコーチング活動を行っていて、週に4、5回ほど母校である日本大学へ行ってハンマー投げの指導をしています。今なお指導者として最前線にいるわけです。

大学生といつも一緒に過ごしているからか、内面も若々しくて常にアップデートされています。スマホもいち早く使いこなそうという姿を見てきました。でも、すごいなと思うのは選手たちにも、指導者である自分が完璧ではないというところを抵抗なく見せているところですね。選手と指導者の関係という部分でとても影響を受けました。

選手の立場から、私がコーチングにおいて大切だと感じることは、どんなレベルのアスリートも自分の魂を込めて指導するということです。指導者が真剣かそうでないかは簡単に見抜かれてしまいますから。

指導者が諦めたら終わりというのが根底にあって、そこに選手のレベルは関係ないですよね。何時間もかけて指導し、自分も必死で勉強する。父が全力の姿勢で向き合ってくれたから、この人に指導されて良かったと心から思えましたし、あれだけ選手生活を続けられたのだと思います。

意見が対立することもあるし喧嘩になることもありますが、指導者はコミュニケーションを取り続けることを諦めてはいけないと思っています。そして、指導者が持つ理想を押しつけると選手は壊れてしまいますから、理想の選手を作るのではなく、選手の個別性に合わせて成長をサポートする姿勢が大切だと思っています。

親は、子どもの個性に合った、根拠ある情報を取捨選択してほしい

スポーツをする子どもを持つ親御さんは、どんなことに注意すれば良いでしょうか?

順天堂大学スポーツ健康科学部 講師/株式会社attainment 代表取締役 室伏由佳 氏

私はそこまで親御さんと多く関わってきたわけではありませんが、日本陸上競技連盟の指導者養成部の委員として、U-16とU-13を対象に、講師で手分けをして全国を回って陸上教室を実施しています。そのプログラムでは、午前中に実技指導、午後は記録会という形を主に取っていました。特にU-13は小学生も多い年代なので、記録会に関しては実際の試合に近い雰囲気を体験できる貴重な場となります。

そこでは、子どもたちが場の空気を敏感に感じ取って、真剣な表情に変化していく様子を、親御さんも真剣に見ていた姿が印象に残っています。また、同日に公認スポーツ栄養士が登壇する栄養や理論に関する講習も開催していたのですが、そこでも前向きに関心を持ってヒントを得ようとする熱心な方が多いなと感じました。

断片的な印象にはなりますが、親ができることとして、情報の取捨選択をするためのリテラシーを身に付けると良いのかなと思います。新しいことへの感度は素晴らしいので、お子さんに合った適切な情報とエビデンスある情報、それらの選択、整理が必要だと思います。

情報が整理されて提供されていないというのも問題点でしょうか。

それもありますし、読み取り方の問題もあります。自分に都合の良い読み取り方をしてしまうと、趣旨から外れた解釈になってしまうので、そのスポーツを束ねる団体や協会などで見解を統一して発信したり、そうした団体が主催して講習を開いたりできればいいのではないでしょうか。現在、JISS(国立スポーツ科学センター)では設置から20年の期間で得られたさまざまなスポーツ医科学分野のエビデンスが蓄積されており、それらを基に必要な情報がまとめられています。このように、正しい情報をシェアする総合サイトの構築は大変有用性が高いと感じられます。

私の選手時代は、そこまでの情報が得られる時代ではありませんでした。なので今は、とても良い時代になってきたと思います。当時知りたかった、こうすれば良かったと後悔する元アスリートも多いので、スポーツ医科学において、症例や事例、選手のナラティブデータなどを収集し、得られたエビデンスをデータ化することで現役の選手に役立ててもらいやすくなると思っています。

具体的な事例と合わせて紹介することで、自分の悩みとの類似性から興味を持ってもらえたり、考えるきっかけにしてもらえればと思います。実体験というのは貴重なサンプルですし、指導者が全てを網羅して紹介するのはほぼ不可能なので、選手が自分で探して適切な知識を得られるデータベース作りが必要であると思います。

競技や、性別に応じた情報を整理していくという取り組みがあるといいですね。

必要だと思います。年齢・性別によって発育も身体構造も違うので考慮は必須だと思います。JISSが公開している「成長期女性アスリート指導者のためのハンドブック」という資料であったり、東京大学医学部附属病院の能瀬さやか医師が、女性アスリートの研究を整理して作成された「Health Management for Female Athletes」という資料もあります。月経調整など含め、とても詳しく書いてあります。こういったエビデンスを基にした基本的な情報を確認することで、全体構造を学ぶことができます。そういった情報のベースとなり得る基礎的な知識の部分が欠けているなと、講演や講習会を行っていると痛感します。特に男性の指導者やご家族の方にもご覧いただきたいと思います。

正しい知識・データにたどり着くための導線が必要ですよね。育成年代は自分での判断が難しく、身の回りの指導者や親が与えたものがベースになりますから。

アスリートとスポーツの価値を守るための「アンチ・ドーピング」研究への取り組み

今後取り組んでいきたいことについて教えてください。

パソコン画面を見せる室伏由佳さん

私は現在「アンチ・ドーピング」に関する教育の研究をしています。来年、2021年はCode(世界アンチ・ドーピング規程)が改訂され、2021年版規程・国際基準が発効されるのですが、新たな国際基準として、「教育に係る国際基準」(International Standard for Education;ISE)が策定されます。ISEの概念では、教育対象者を2つのターゲット層に分類し、最低基準で教育を実施すべきトップアスリートの対象グループと、トップアスリート以外の特定のターゲットグループに向けた教育計画が検討されています。

教育が最低基準で必須となる対象者には、検査機会が見込まれる国際水準のアスリートとそのサポートスタッフ層が含まれます。トップアスリート以外の特定のターゲットグループについては、5年以内に全国大会への出場経験がないなど複数の条件に当てはまり、本格的な競技レベルにない競技者を「レクリエーション競技者」と概念化されます。レクリエーション競技者は、制裁措置が軽減されることや、違反事案の一般公開は義務化されない形となります。さらに、アスリート以外の教育層も示されており、子どもおよび若い世代の人たち、教員、大学の職員および学生、スポーツ管理者、スポンサー、メディアなどが対象となります。さまざまな競技水準や立場のターゲットグループに対し、科学的エビデンスを基に教育実施を試みていく方向となります。

世界アンチ・ドーピング規程では、体内に摂取する全てのものにアスリートは責任を持つという厳格なアスリートの責務におけるルールがあります。全国レベルの大会ではドーピング検査(競技会検査)が行われていますが、競技会外検査(抜き打ち検査)を受けるようなトップ選手とそのサポートスタッフのグループは、引き続き教育を実施していきます。一方で、レクリエーション競技者層に対する教育の推進に向けて、日本も動き始めています。

ドーピング検査の対象の中心は確かにトップアスリート層ですが、Codeの定義では「対象者は全てのアスリート」とされています。私の行った大学生アスリートを対象としたアンチ・ドーピング知識の実態調査研究では、大学生アスリート1,143名のうち、ドーピング検査経験者は2.5%程度でした。そのため多くのアスリートはドーピング検査を受けていません。そうした状況では、「自分とは関係ない」と考えるアスリートも多くいることが想像できます。検査があるからルールを守るということに留まらないためにも、「スポーツの価値」をベースとし、健康、フェアプレーや倫理観といった教育にフォーカスしながら、できるだけ若い年代から教育のアプローチをしていくことが求められると思います。

スポーツとアンチ・ドーピング研究室講師室伏由佳さん

近年行ってきた大学生アスリートのアンチ・ドーピング知識に関する実態調査では、ドーピング検査の対象となる全国レベルの選手ほど、他の競技レベルの選手と比べて意識が低いという実態が明らかになっています。医療系の学部に属する学生との比較では、アスリートの知識は統計的に見ても有意に低い結果でした。

ドーピングによる副作用など医学的知識の欠如や、体内に摂取するものに責任を持つ「アスリートの責務」に関する知識不足が明らかになりました。特に、ドーピング検査に対応するような競技レベルのアスリートは、アンチ・ドーピングに関する正確な知識を得て、自身で行動できるようにするための教育は必須であると考えます。

近年、禁止物質が含まれる薬の服用による違反よりもむしろ、サプリメントに禁止物質が混入されていたケースでの違反事例が国際的にも多く、日本でも残念なことにそうした違反事例が相次ぎました。サプリメントと医薬品の違いも把握しておく必要がありますね。サプリメントは法律上では食品とされています。健康食品のうち、特定成分が凝縮されたものを指し、通常の食事で蓄える量よりもはるかに濃度が高く、代謝に関連して消費されます。

医薬品は、低濃度でも生体反応を調整するため、競技力向上を目的とした使用は禁止されています。医薬品はすべての成分が明らかであり、Global DROというサイトから禁止物質が含まれているかの確認が可能で、調べた履歴も残ります。サプリメントは食品であるために、正確な含有成分については調べようがありません。禁止物質が微量混入されていたケースにおいては、自己責任となる点を理解しておく必要があります。食品ですので、治療を目的とした使用という弁明ができないため、アンチ・ドーピングとサプリメントに関する正しい認識を持つ必要があります。

もちろん検査を受けない選手たちはドーピングの問題に直面するわけではありませんが、自分が服用する薬に何が含まれているのか調べる習慣を付けようという教育や啓発が必要だと感じていて、そのための取り組みを模索しているところです。

以上のアンチ・ドーピング教育に関わる研究の紹介は一例ですが、現役のアスリートだけでなく、育成年代も含めた選手たち、スポーツに携わる全ての人が適切な情報を得られるように教育・研究活動を続けていきたいと思っています。

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聞き手・文/今井 慧  写真/三田村優