戦力外通告は“終わり”じゃなかった。自らが道となり、プロ選手のその後をサポートする

1999年、鹿島アントラーズへ入団するも、怪我に悩まされ、2008年に戦力外通告を受けた。その後自らプレーの場を求め、シンガポール、インドネシア、タイ、ミャンマーと東南アジアのリーグでプレー。2015年に現役引退。引退後は本庄第一高校サッカー部の監督を務め、現在はサッカー選手のエージェント業を本業に、ユーフォリア社にも所属し選手たちをサポートする。中心にあるのは、サッカー界への恩返しという思いだ。金古氏はキャリアをどう考え、この先に何を描くのか。

インタビュイー

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金古 聖司
株式会社アストニック 選手サポート、株式会社ユーフォリア セールス

1980年生まれ、福岡県出身。元U-21サッカー日本代表。東福岡高校で全国高校サッカー選手権大会、インターハイ、高円宮杯全日本ユース(U-18)サッカー選手権大会を制し、高校3冠を達成。卒業後は鹿島アントラーズに加入。2005年にヴィッセル神戸に移籍し、アビスパ福岡、名古屋グランパスでプレー。2009年からは、シンガポール、インドネシア、タイ、ミャンマーと海外で活躍。2016年から本庄第一高校の事務職員・サッカー部監督として活動。その後、サッカー選手のエージェント事業を行う株式会社アストニックで選手サポートを担う。並行して株式会社ユーフォリアではONE TAP SPORTSのセールスに従事する。

「納得してやめる」理由を探すため海外へ。戦力外通告から7年間プロとしてプレーを継続

海外への挑戦を決めた背景には、どんな思いがありましたか。

金古聖司氏

2009年に鹿島から戦力外通告を受けて、サッカーをやめようか悩んでいました。そんなとき家の周りをランニングしていたら、偶然出会ったおばさんに「サッカー選手になれたらいいね」と声を掛けられたんです。鹿島はサッカーの街なんですけど、私がサッカー選手だと知らない人だったんですね。それを聞いて、地元の鹿島でも自分は認知されてないのか、とすごく悔しくなったんです。

加えて、私の様子を見ている妻が「やめる理由をちゃんと見つけた方がいい」と言ってくれたこと。「日本では怪我が多くてプレーできるチームが見つからないけど、世界中探したらあるかもしれない。それでもチームが見つからなかったら納得してやめられるんじゃない」と。それで海外に挑戦することを決めました。

当初、代理人を通じて韓国のあるチームの練習に参加しようと思ったのですが、後にチームメイトになる日本人選手から「シンガポールのチームのディフェンスがうまくいっていないから明日来れる?」と連絡が来て。その日のうちにチケットを予約して、次の日飛び立ちました。「外国なのに明日!?」と思いましたが、案外海外ってこんなに簡単に行けるんだと思いましたね。

日本とは違った環境の中で、すぐにチームにはなじめましたか?

シンガポールでの1年目は一番きつかったです。言葉が分かりませんし、これまでやっていたサッカーの「当たり前」が通用しない。例えばディフェンスだったら、1人がアプローチに行ったらカバーに行くべきなのに、そのカバーがない。「なんでできないんだ」とメンバーに対しいつも怒っていました。摩擦も起きましたね。

金古聖司氏
シンガポールプレミアリーグのタンピネス・ローバースFCへ移籍後の2011年と2013年のリーグ優勝に貢献。写真左は当時ともにプレーしていた山下訓広選手(写真:金古氏提供)

でも、チームのみんなと一緒に地元の店にご飯を食べに行ったり、英会話の教室に通って言葉を覚えたりして、少しずつ交流が深まっていき、サッカーで「当たり前」だと思っていたことを伝えていきました。それに私は外国人枠として迎えられているので、シンガポールの選手と同じではダメだという部分もありました。試合では結果を出す、練習にもちゃんと向き合う、そういうところはすごく気をつけていました。私が入った年、リーグ4位だったチームは2位に。移籍して3年目で優勝しました。

環境が変わっても、そこに順応する。どんな場所でも自分の価値を見出し発揮するということは、サッカーを通じて学んだことですね。

引退を決めたタイミングは。

海外に行くと決めた時、もうひとつ決めたことがあるんです。それは、ヨーロッパにチャレンジすることでした。それを果たすために、シンガポールで1シーズン目が終わるタイミングで、ドイツの3部のチームの練習に参加したんです。2週間ほど練習して、監督からは契約したいと言ってもらえました。条件が折り合わず契約には至りませんでしたが、ドイツでもある程度自分のプレーが通用するんだと分かったので、自分の中でヨーロッパへのチャレンジはひとつ区切りがつきましたね。

その後、シンガポールのチームのオーナーの厚意でチームに戻ることができ、プレーした後、インドネシア、タイ、ミャンマーと東南アジア各地でプレー。最後のミャンマーのチームでは、ほとんど負けがない状態でぶっちぎりで優勝しました。でも、最終的にはクビを切られてしまって。その後マレーシアで挑戦しましたが、練習中に若手選手と走っていて体力差も感じ始めていましたし、私の両膝はボロボロでした。ここまでやったからいいかな、と納得できたんです。怪我が多かったという悔しさはありましたが、ここまでよくやった。35歳、ようやく自分を褒めることができました。

人間「金古聖司」として何ができるかを考えさせられた海外でのプレー経験と帰国後の指導経験

その後、本庄第一高校で監督に就任されました。引退後のことは、いつから考え始めましたか?

金古聖司氏

実は早い段階から考えていました。具体的には、海外に行った頃からですね。日本でプレーしていた頃は、起業家や経営者などさまざまな人に会う機会はあるのですが、サッカー以外に何かしようとは思っていませんでした。当時はそんなことを考えるなら練習しろという雰囲気でしたし、自分も怪我が多かったこともあり、ケアの時間を重視していました。

でもシンガポールでは、500人規模の日本人向けサッカースクールを運営していたり、5カ国語を話せる選手がいたり、駐在で来ている人やシンガポールで起業された人を見て、日本にいた時にもっと視野を広げておけばよかったと思いました。

日本にいた時は、飛行機や新幹線のチケットを自分で買ったこともなかったし、ホテルもとってもらっていました。チームに守られていたんですよね。でも、海外に行ったら自分のことは全部自分でやらなければならない。生活を含めて自分をマネジメントしていく必要があるんです。英語を話さないと生活できなかったので勉強もしました。海外に行って成長したと思いますし、世の中を知って自立したと感じますね。その環境で、サッカー以外のことも自然と考えるようになりました。

海外に行って、「選手」ではなく一人の人間として接してもらえたことも大きかったです。シンガポールやタイには家族と一緒に行っていたので、子どもは現地の学校に通っていましたし、コミュニティの中で暮らしていました。家族をサポートしてくれる地元の人たちに感謝し、自然とこの国の人たちのために何かしたいなと思うようになったんです。

ある国では、国の経済援助によって「日本人に道路を造ってもらった」と自分にも好意的に接してくれました。日本の先輩たちが頑張ってくれたから今この道があるんだと感じられました。自分も海外にいる日本人の一人として、後進の道になれるように、自分にできることをしようと考え行動するようになりました。

ミャンマーの子供達をスタジアムに招待する金古氏
金古氏が2015年から1年間プレーしていたヤンゴン・ユナイテッドFC時代、ミャンマーの養育施設の子どもたちをスタジアムに招待(写真:金古氏提供)

例えばミャンマーにいた時は、試合のチケット代は自分が持ち、施設の外に出る機会の少ない養育施設の子どもたちをホームでのほとんどの試合に招待したことがありました。子どもたちが見に来てくれた試合では、1回も負けませんでしたし、子どもたちの笑顔を見て逆に励まされました。ほかには、ミャンマーでは質の良いスポーツ用品が売っていませんでした。サッカー選手が良いスパイクを買えない状態だと知って、自分でスポーツショップを経営しようと考えたこともありました。ちょうどチームとの契約が終わってしまい実現には至りませんでしたが、販売ルートやテナントまで見つけていたんです。「何か自分にできることはないだろうか」と探していましたね。

日本に帰国後の仕事について、めどは何かつけていたのでしょうか。

スポーツにつながることで、東南アジアとも関わりが持てる仕事ができるといいなと漠然と思っていたくらいです。ノープランです。帰国後すぐ、高校時代の恩師に引退の報告をしに行ったところ、「高校サッカー部の監督をやってみないか」と誘いを受けました。

本庄第一高校サッカー部監督時代の金古聖司氏
現役生活を終え、埼玉県の本庄第一高校にいち事務職員として入職しサッカー部監督を務めた(写真:金古氏提供)

指導者の道はまったく考えていなかったのですが、サッカーや監督へお世話になった恩返しがしたいという気持ちがあって、引き受けることにしました。この選択で、人生が変わりました。

とはいえ、選手としての経験はあるものの指導の経験はありませんから、練習メニューを組み立てるのも初めて。着任して練習を始め私が指示を出した時、一人の選手が「聞こえねえよ」ってボソッと言ったのが聞こえたんです。そこで火がつきました。見てろよと思ったんです。

自分が選手たちを見ているように、選手たちも自分を見ています。指導歴があるわけでもない監督に何ができるのか? どれくらい本気なのか? と。自分が選手の立場だったら練習の時だけ現れる新米監督があれこれ指示しても、絶対に言うことを聞かないと思ったので、プロコーチとしてではなく、事務職員として学校に勤務させてもらうことにしました。それなら毎日普段から選手と顔を合わせ理解を深められますから。

指導者として、最初は未熟でした。東南アジアに行った時と同じで、「なんでできないんだ」とすぐ思ってしまって。でも1年くらい経った時、もう一度高校時代の恩師に会いに行ったことが転機になりました。恩師から「選手をその気にするのが良い監督だ」と言われたんです。普段のトレーニングの中でどれだけ自分を見つめ直してうまくなれるか。どうやって一人ひとりに火をつけてあげられるか。それを考えるのが指導者だと分かりました。トレーニングの組み立ても学び続け、そこから少しずつ指導が変わっていきましたね。

監督から、現役サッカー選手のエージェントに転身されました。ユーフォリアでONE TAP SPORTSの営業という副業(複業)もされています。キャリアチェンジのきっかけは?

監督として多くを学ばせてもらった5年でしたが、指導者としての限界を感じました。この学校で自分がこれ以上手掛けても、これ以上は上にはあげられないなという力不足の感覚があったんです。ここでひと区切りをつけ、サッカー選手をサポートする側に回りたいと思いました。

現在の会社の代表からエージェント立ち上げの話をいただき、一緒に仕事をさせていただくことになりました。その頃、ユーフォリア社の代表とも知り合い、ビジョンに共感してお手伝いさせていただくことになったんです。自分自身、高校時代は怪我をしても痛いと言えない状況があったり、プロになっても痛み止めを飲んでプレーしていたり。高校サッカー部を指導している時にも、高校生の怪我には課題感を持っていました。そんな状態をなくすことができればいいなと思いましたし、怪我で苦しんだ自分だからこそ、できることがあるんじゃないかと。

コンディションやトレーニング管理に活用するONE TAP SPORTSのサービスを見て、食事など日常生活から突き詰められれば、もっとできることがあったのかもしれない、と思うようになりました。怪我をする、しないも才能や運のうちではあると思う一方、もっと突き詰めてコンディショニングできたかもしれない、という後悔があるんです。でもだからこそ、これからの選手たちに伝えていけるんじゃないかと思っています。

指導者からエージェント、スポーツテックの営業と業種は違いますが、サッカーへの恩返しをしたいという思いが中心にあることは変わりません。これまでやってきたことは全部つながっていて。海外での経験があったからこそ、今エージェント業務で選手の次の活躍の場として海外への移籍先開拓ができていますし、指導者としての経験がユーフォリアの営業にも生きている。何事も受け止め順応し、自分に出せる価値を見出していく。そうすることで、次につながると感じています。

「戦力外」は終わりじゃない。納得し、次のステージに向かえる仕組みをつくりたい

最後に、今後の展望を教えてください。

実は今の活動は、この先に描いている大きな夢のためにあるんです。

その夢とは、戦力外通告を受けた選手たちが練習できる環境を作ること。自分のように、まだやれると思っていても、怪我やさまざまな理由からプレーできるチームがなくなってしまう選手に、もう一度プレーできる場所を作りたいと思っています。

今、プロサッカー選手だけでも1年間に百数十人の選手が戦力外通告を受けています。トライアウトの機会はあるのですが、見つけてもらえる選手はほんのひと握り。故障を抱える選手は最初からほとんど見てもらえません。

でも、私が日本で戦力外通告を受けた後の7年間を東南アジアでプレーできたように、世界中探せばプレーできる場所はまだまだある。日本より良い条件でプレーできる国だってあるんです。それを知ってほしいし、選手たちが再チャレンジできる可能性を広げたい。チャレンジしたうえで、納得できる「続け方」「やめ方」をしてもらいたいなと思うのです。

また、せっかくプロになっても、まだ体力も可能性もある若いうちに1年で戦力外になってしまうこともある世界。それほどリスクが高いとサッカー選手を目指す人が減り、若い選手が育ちにくくなってしまいます。ヨーロッパには16、17歳でトップチームで活躍する選手もいるので、そこに世界との差を感じますね。

海外では、戦力外通告を受けたら年俸の半分ほどが支給される失業手当があったり、その後も練習を続けられる場所があったりする国もあります。日本にも、そういった仕組みや場所を整えていきたいと思っています。今は場所を探しているところで、賛同してくれる人を増やしながら、できることから始めていきたいですね。

エージェントの仕事も、ONE TAP SPORTSの営業の仕事も、選手や指導者の経験があるからこそ、ここにたどり着いている。戦力外通告を受けても終わりじゃない。サッカーを続けるにしても、やめるにしても、一人でも多くの選手が納得してその次の道に進めるようにサポートしていきたいです。

 

取材・文/粟村千愛(ドットライフ)   撮影/小野瀬健二