一点集中が得意な、自閉症のある選手が世界記録を出すまで

パラアスリートの指導には、障害者一人ひとりの特性や障害の違いへの理解に努め、それぞれの強みやこだわりを生かしながら、指導を行わなければならない。NPO法人 日本知的障がい者陸上競技連盟 東京2020ディレクターの下稲葉耕己氏が、指導者の道へ踏み出したきっかけは、勤務する盲学校に転校してきた「何か運動をしたい」という生徒の要望からだった。それから14年、試行錯誤しながらも、一人ひとりに合わせた指導法で世界記録を出す選手を育ててきたその秘訣を聞いた。

インタビュイー

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下稲葉 耕己
one's Para Athlete Club(ワンズパラアスリートクラブ) 代表、NPO法人 日本知的障がい者陸上競技連盟 東京2020ディレクター

1984年生まれ、東京都出身。2008年順天堂大学大学院修了。大学院修了後、千葉県立千葉盲学校に着任。当時中学2年生だった視覚障害を持った松本春菜選手と出会い、陸上競技部顧問として指導を開始。その後、千葉県立特別支援学校流山高等学園でさまざま障害を持つ選手を指導。ロンドン2012パラリンピックでは、視覚障害のある選手に伴走するガイドランナー、走り幅跳びの踏切位置を声や手拍子で伝えるコーラーなどを経験。現在はone's Para Athlete Club(ワンズパラアスリートクラブ)の指導およびパラリンピック代表選手の指導も務めている。

「分かる」ことを阻害している障害は何か、知ることから始まる

「何か運動をしたい」という生徒の要望から、陸上部をつくった

私が初めて配属されたのは千葉県立千葉盲学校でした。そこで、健常者が通う中学校から盲学校に編入してきた松本春菜選手に出会いました。編入当初、松本選手は自分の障害を受け入れられず、悩んでいました。そんなとき彼女から「以前、バレーボールをやっていたけど、ボールが見えづらいからできない。でも何か運動をしたい」と相談されました。彼女に前を向いてほしかった私は「じゃあ、部活を本気でやろう」と言って、目が見えづらいことからボールを扱わない陸上部を本格的に立ち上げ、始めることに。

そしてすぐさま、千葉県の中体連(公益財団法人日本中学校体育連盟)にあいさつに出向き、「伴走なしでも走れるので、健常者の子どもと一緒に走らせてもらえませんか」とお願いしたら、快く受け入れてもらえたのです。そして陸上部を本格的に立ち上げました。私がパラアスリートを指導したのは彼女が初めてで、その後、彼女が2013年に視覚障害の大会で銀メダルを獲り、2019年に彼女が転職を機に引退するまでの12~13年間指導していました。

その後、知的障害特別支援学校に転任し、視覚障害だけでなく、知的障害の子たちも指導しました。「できない」から「できる」ようになるまでに、私は「分かる」というプロセスがとても重要だと考えています。しかし、障害のある選手に共通するのが、障害が「分かる」ことの妨げになっているということです。

例えば、健常者の選手には「こういう風に腕を振って」と、視覚的に腕の振り方を見せることができます。でも視覚障害がある選手には動作を見てもらうことはできません。障害が運動技能の仕組みを理解するのを邪魔しています。また、知的障害の場合は、障害そのものが「分かる」ための阻害要因になります。ですのでどんな障害にしても、まず「分かる」ために阻害している要因を知ることからスタートし、どうすれば「分かる」か方法を見つけていくことから指導が始まります。

障害の内容に合わせて一人ひとり異なる指導

NPO法人 日本知的障がい者陸上競技連盟 東京2020ディレクターの下稲葉耕己氏

例えば、視覚障害があるとすると、見える範囲が狭い場合には、全体像を捉えられません。見えないなら、体験し、イメージするしかありません。そこで寝転がって、自分の身体の動きや重みを感じてもらうとか、とにかくいろんなことを試します。障害のある選手が3人いれば、全員異なる指導をしています。

五感から得られる情報のうち、目で見ている情報が全体の7割、8割と言われますので、陸上競技場に行くだけでも、健常者の選手は、他の選手が走っているのを見て、ビジュアルフィードバックができます。

ですが、視覚障害のある選手は自分でできるフィードバック回数が極端に少ないので、私のような指導者が代わりにフィードバックをすることは重要です。例えば、この動きは立ち上がる動作に似ているなど、見えなくても既に体得している動作に置き換える伝え方などを考えます。このように特に障害のある選手たちには「分かる」ための指導に重点を置いています。

2020年、日本人の知的障害者としてトラック種目(10000m)で世界記録を出した岩田 悠希選手との出会い

岩田悠希選手
東京パラリンピック、陸上日本代表に内定した(2021年5月10日時点)、岩田悠希選手。それぞれの選手のいいところを見つけてそこを伸ばしていくのが下稲葉氏の指導法だ(写真提供:one's Para Athlete Club)

岩田選手との出会いは、彼が特別支援学校に入学した高校1年生のときでした。当時、私は陸上部の顧問でしたが、岩田選手は自閉症があり、部活見学に来たときにはこちらの話を全然聞いていないように見えましたし、違う方向を向いていて注意がこちらに向いていないように見えたので、どう指導すべきか、正直、分かりませんでした。

部活に入ってハードルのドリル(ハードルを上手に飛ぶための腕ふりや脚あげなどの練習メニューのこと)をしても全然できないし、走ったタイムも一番遅い。ただ朝練にはほとんど休まず来ていました。学校から家が近いというのも、もちろんあったかもしれませんが(笑)、毎日ルーティンをこなしていくことにこだわりを感じているようでした。

朝練は社会に出たときに生活リズムを作るためという大切な目的もありながら、岩田選手の場合、「これを続ければいい」というルーティンが心地良かったようで、もくもくと練習するうちに少しずつタイムも上がっていったのです。

岩田選手の特性を生かし、集中できる環境をつくる

岩田悠希選手
合格ラインの数字をじっくりと見つめる岩田選手(写真提供:one's Para Athlete Club)

毎朝7時半から朝練を続けていると、岩田選手に少しずつ変化が見られました。岩田選手はこだわりが強いところがあります。例えば、予定とは違う練習を突然メニューに加えると、嫌になってしまいます。一方で自閉症ですが、仲間と一緒にいることは意外と好きで、例えば、「頑張るぞ!」などと掛け声をするときには一緒に参加してくれます。また岩田選手のこだわりとして、「数字」がすごく好きという特性があります。

自閉症のある人は、電車の時刻表、路線図などを好む傾向があるのですが、特に岩田選手の数字へのこだわりは強かったんです。高校1年生のころは陸上初心者でしたが、2年生の冬ごろから少しずつ変わっていく姿が見られ、もっと強くなれるんじゃないかと思うようになりました。数字へのこだわりと、その数字を達成するためにふんばれる力があるというのがその理由でした。例えば、私が作ったメニューを提示して、合格ラインの数字を見せる。岩田選手はそれをクリアするために必死に頑張るんです。

健常者の選手の場合、インターハイの標準記録や大会に出場できるタイムを目指して練習を重ねます。この場合、他者のレベルを理解したうえで、「あの選手はこうだから、自分はここまで行けるかもしれない」のように心にバイアスがかかります。でも岩田選手の場合、他者のことは眼中になく、自分の目標数値をクリアすることに一点集中しているのです。他者と比べないということが、彼の伸びしろを引き上げ、世界記録を出すまで成長できたんだと思います。

目標達成できる要因や手だては一人ひとり違う

障害特性+得意なことで専門種目を見極める

日本知的障がい者陸上競技連盟 東京2020ディレクターの下稲葉耕己氏

 

選手が得意なことを考慮に入れ、知的障害のある選手の場合には、障害特性も考慮に入れて専門種目を決めます。長距離走や短距離走の場合は腕を振って、足を運ぶ循環運動になる。つまり最初から最後まで同じ動作です。しかし走り幅跳びや、手を使って遠くへ物を投げる投てきなどは非循環運動です。走る、踏み切る、そして主要局面では跳んで、フィニッシュする。このような非循環運動は、高い運動スキル獲得能力が必要とされています。さらには、知的障害選手には苦手分野であるともされています。

岩田選手の場合、循環運動が得意でしたので、走る種目以外の選択肢はありませんでした。したがって指導者には、本人の身体的特性、例えば短距離なのか長距離なのか+障害特性を理解したうえで、専門種目を見極めていく力が求められます。そして本人が得意なことに打ち込めるようにサポートしていくことも、指導する際には重要ではないかと思います。

自閉症の岩田選手を指導するときに注意していること

岩田選手には、余計なことを言わないように気をつけています。一般的に健常者の選手なら、その日の自身の調子や感覚などを重視してトレーニングします。でも岩田選手にはあらかじめ時計(スマートウォッチ)にトレーニングプログラムを送っておいて、自分で確認しながら目標を超えられるようにしています。

私はほかにも長距離選手の指導をしていますが、その選手の場合は逆に、コミュニケーションを指導者と取りながら「ああでもない。こうでもない」と試行錯誤を繰り返しながら技能練習をしていく方が自身に合っていると感じているようなので、岩田選手と同じ方法は通用しないわけです。つまり、どんな選手に対しても本人が集中できる環境を作るように心をくだいています。

よい影響がないなら感情的に怒っても意味がない

日本知的障がい者陸上競技連盟 東京2020ディレクターの下稲葉耕己氏

指導するなか、もどかしいと感じても、岩田選手に怒ることはほとんどありません。選手のことを思って怒っているとしても、彼にとっては「怒られた」という事実しか残らないからです。怒ることの背景には、指導者が選手の成長を願う気持ちがあるわけですが、それが伝わらないので意味がありません。なので怒ることはありません。

ただし、社会人になって迷惑をかけてしまうような行為、例えば、物をきちんと片づけるように伝えていたのにもかかわらず、ぐちゃぐちゃにしている。そんなときには「これについてどう思います?」などと問いかける形で叱ります。けじめをつけるべきところではしっかりとけじめをつけることも大切にしています。

「私はなぜ障害者へスポーツを教えているのか」。それは、選手の自発的な、やりたいという気持ちを応援したいから

知的障害アスリートは、どうしても「支援者」、例えば指導者であったり保護者であったりの関わりが大きくなる障害種です。その分、「良い意味でも悪い意味でも」支援者の思いや意向が選手に重く伝わります。選手はあくまでも自分自身のためにスポーツに取り組むことが大切です。ここがスポーツの本質ですので、「支援者の願いを叶える」ことに主眼が置かれた取り組み方にならないように十分に注意する必要があると考えています。

知的障害があっても「みんなといると楽しいから」とか「パラリンピックに出たいから」などの、選手本人から自発的に出てくる目標や思いを尊重していくことが重要です。

今、パラの世界もレベルがどんどん上がってきていますが、世界ランキングや日本記録一覧に載っている自分の名前を見てうれしそうな様子をしている岩田選手のように、本人の意志で頑張って強くなっていく。私は、知的障害のある選手でも、どんな思いでもよいので、選手の自発的な気持ちを応援したいと思うのです。

 

取材・文/松葉紀子(スパイラルワークス) 撮影/保田敬介