[第3回]「努力」は「夢中」にかなわない

いまだ破られぬ男子400メートルハードルの日本記録を持ち、コーチをつけず常に自身に向き合いスポーツを哲学してきた為末大氏に聞く、為末流「選手を幸せに導くプロセス考」。第3回は、「努力」は「夢中」にかなわない。心理学に基づいた理想的なトレーニング方法について語る。

インタビュイー

インタビュイー
為末 大
為末大学 学長

1978年生まれ、広島県出身。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2020年11月現在)。現在は人間理解のためのプラットフォーム為末大学(Tamesue Academy)の学長、アジアのアスリートを育成・支援する一般社団法人アスリートソサエティの代表理事を務める。新豊洲Brilliaランニングスタジアム館長。主な著作に『Winning Alone』『走る哲学』『諦める力』など。

夢中になれば、上達は早い

米国の心理学者、ミハイ・チクセントミハイの『フロー体験』という本があります。その本によると「フロー(Flow)」とは、周りが見えなくなるほど、精神的に集中している感覚を意味するといいます。フロー状態にあるとき、人間は時の流れを忘れ、言いようのない高揚感に浸れるというのです。フロー以外にもゾーン、ピークエクスペリエンス、無我の境地、忘我状態などとも言いますね。

何かに夢中になると、ぐんと上達するというのです。ただ意図的にそうしようとしても、なかなかできるものではありません。「しよう」と思っている状態は、すでに自分を客観的に見ている状態です。例えば、目の前に大好きな父親が立っていると、自然に走っていけるお子さんがいるとします。でも卒業式のようなたくさんの他人に見られる場所で歩くと、急にギクシャクしてしまいます。人から見られていると意識をした途端、身体の動きは自然ではなくなるのです。

たとえが良いかは分かりませんが、ラットにドーピングの薬剤を投与して運動させると筋肉の大きさが一定量大きくなるという話があります。その後、薬剤を取り除いてもう一度トレーニングしても、薬剤を投与したときと同じ大きさの筋肉になる。一度、限界を突破すると、記憶して再現できるようになると言われます。夢中で何かに取り組んで、技を再現できるようになるのはこの現象に似ていますね。

本来、アスリートは自分の限界を突破するまでがかなり難しいのですが、一度超えると、記憶して再現できるようになります。「努力」は没頭している状態ではないので、限界を突破するのが難しい。だからこそ、「夢中」になることは選手の力を向上させるためには欠かせず、努力は夢中には決してかなわないのです。

「義務」からの解放が、夢中へとつながる

指導者は選手を競技に没頭させるためには、どうすればいいのでしょうか。

それは義務から選手を解放することです。例えば、「勝たなければならない」「より上の順位に行かなければならない」ということから、意識を解放させることが大事です。漫画を読んでいると夢中になれるじゃないですか。それは読んでも評価されないからです。でも読書感想文を書くとなり、評価されるとなると急に読む姿勢も変わってしまいます。

アスリートの場合、上に行けば行くほど、期待値は上がりますし、義務から自分の心を解放するのは難しくなります。しかし「ここは絶対に勝つぞ!」と指導者が言うと、選手は期待に応えなければならないと思い、そう思えば思うほど、夢中からは遠ざかってしまいます。ちなみにチーム競技よりも、個人競技の方が義務から解放する必要性が高い。チーム競技だと、組織の中でそれぞれ役割があるので期待との向き合い方も少し違うからです。いずれにしても、周囲の期待や義務との向き合い方を実践しながら、自分なりの向き合い方を定めていく必要があります。

ボディーランゲージが選手に与える影響を理解し、意識的に使う

指導者の場合は「選手にかける期待」を表現する時には注意が必要でしょう。

選手は指導者に失敗したのを見られると、心理的にショックを受けます。指導者は、自分の視線が選手に与える影響を知り、上手に目線を外したり、戻してみたりしながら、選手がのびのびとしたり、きゅっと緊張したり、緩急をうまく扱えるようになるのが理想です。つまり、「見ない技術」を覚えることが重要です。指導者は自分の身体が出しているメッセージ、首の角度でさえもどういう影響を与えているのかを理解しながら、指導をしなければなりません。

子どもたちを1列に並ばせて、ハードルを跳ばせて転ぶと痛がってやらなくなります。実際、転んで痛いというよりは、仲間に転んだのを見られることで自尊心が傷つくからです。そのことを踏まえて、横5列に並べるなど他の人の目を気にしなくてよいように配慮をすると、転んだとしても途中で止めたいというお子さんはあまりいません。

のびのびとプレーできるように、このような工夫も参考にしてみてください。

為末大学学長為末大氏

ロールモデルは遠い存在、近い存在、両方いるといい

話は変わりますが、中学生や高校生の選手にもロールモデルがいた方がいいのでしょうか、という質問を受けることがあります。ロールモデルを持つこと自体はいいのですが、いくつか落とし穴があります。

例えば、すごい人をロールモデルにすると、「遠すぎて届かない」という気持ちが生まれ、あきらめてしまうリスクがあります。また、ロールモデルがやっていることをただマネするのも問題があります。例えば、イチロー選手がカレーを食べているから、カレーを食べるとか。いろいろな背景やロジックが積み重なった上で、行われていることなのに、本質が抜けたまま、単に分かりやすい部分だけマネをする。それではかえって害になってしまいます。

もうひとつの落とし穴は、選手が自身で考えるのを放棄してしまうことです。

一方で、身近な人をロールモデルにするのは参考になることが多いので、近くにいる人をキャッチアップするのはいいと思います。遠く、近く、両方のロールモデルを持つのをオススメします。

ジュニアの競技選びは自分の価値観を大切に

私は姉について陸上部に入ったので、いわば偶然で始めた競技です。その後、100メートル走の選手になり、400メートルハードルへ切り替えたのは18歳のとき。振り返ってみると、自分にとって大きな決断でした。「自分に向いている競技」を決めるためには、前回のコラムでお話しした「自分にとっての幸せ」の定義が基準になります。好きだから勝てなくても幸せなのか、そこまで好きではないけど、勝つのは自分にとって幸せなのかを自身で考えて決めることになります。

勝つことが全てだと決めたとします。勝つことを目的にすると、身体的特徴から選び、最適なトレーニングを探していけば、より活躍できる競技が見つかる可能性が高い。一方で自分の好きなことから探すと、自分に合っているかどうかがよく分からないという問題が生じます。私の経験則からですが、世の中の大多数は「勝つ」のが好きだと仮定すると、身体的特徴から探すのがいいということになります。背が高いのであれば、バレーボールやバスケットボールにチャレンジしてみるというのが分かりやすいでしょうか。

ただ、中学生や高校生の時点で競技をひとつに絞るのは酷なことです。「何が幸せか」と聞かれても分からないでしょうから、いろいろなスポーツをすることで見つけるのが理想です。私自身、好きなこと、勝つことのどちらが自分にとって大事なのかを18歳のときに問いました。100メートル走の競争は厳しいので、400メートルハードルなら勝てると思い選びました。どこを主戦場にするのかを決めることで、その後の人生は変わりました。競技選びはサイコロの目のようなもの。トップアスリートでも自分で選んだという人はほとんどいません。家族がそのスポーツをしていて5、6歳から始めて、ハマっていき、勝つのが楽しくなったという人がほとんどです。それほど自分に合った競技を選ぶのは難しいのです。

取材・文/松葉紀子(スパイラルワークス) 撮影/堀 浩一郎